晴耕雨読

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2024年に新紙幣の発行へ

まえがき

 

晴耕雨読です。

少し久しぶりの投稿です。

 

昨日の東京は、真冬のような寒さでしたが、皆さま体調は大丈夫でしょうか?

甲信地方(山梨、長野)や、東京の奥多摩では季節はずれの雪が降ったそうです。

きっと桜さんもビックリしているでしょうね🌸

最近は寒かったり、暖かったりして寒暖の差が激しくなっています。

 

よく春の訪れが近いという意味で”三寒四温”という言葉が使われますが、調べてみると次のように書かれています。

三寒四温(さんかんしおん)

冬に 4日間暖かい日が続くと 3日間寒い日が続き、また暖かい日が訪れるというように、7日の周期で寒暖が繰り返されることをいう。

朝鮮半島や中国北東部の冬に典型的な気象現象で、日本でもみられる。

冬のシベリア大陸上に発達する高気圧が、ほぼ 7日の周期で強まったり弱まったりするために起こる。

出典:コトバンク

 

それにしても、昔の人は、春先の寒暖差の日のことを上手に言ったものですね…

 

ところで、一昨日の4月9日、財務省は5年後の2024年に新紙幣を発行することを発表しました。

ちょうど新元号『令和』の発表の後でしたので、タイミングとしてはバッチリでした。

 

そして一昨日は朝からこの話題で持ち切りでしたね。

次の1万円札は、“日本資本主義の父”と呼ばれる実業家の渋沢栄一で、5千円札は津田塾大学創設者の津田梅子、また千円札は近代日本医学の父で細菌学者の北里柴三郎が選ばれました。

少し出遅れ感はありますが、それぞれの人物について詳しく見ていきたいと思います。

 

新紙幣の人物に選ばれた人物

渋沢栄一(しぶさわえいいち)

天保11年2月13日(1840年3月16日)生〜昭和6年(1931年)11月11日没

江戸時代の百姓(名主階級)、武士(幕臣)、官吏、実業家。第一国立銀行東京証券取引所といった多種多様な企業の設立・経営に関わり、二松學舍第3代舎長(現在の二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現在の一橋大学)、大倉商業学校(現在の東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。

明治政府では大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔・井上馨の下で財政政策を行った。

また、論語を通じた経営哲学でも広く知られている。

位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵。

 Wikipediaより引用、一部加筆修正(2019.4.11)

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新1万円札(見本)Wikipediaより引用

渋沢栄一は、現在のみずほ銀行の前身である第一銀行の設立にかかわっていたのですね。

 

第一銀行は、戦中に三井銀行と合併して一時期帝国銀行でしたが、戦後の財閥解体等によって、わずか5年ほどで解散し、その後、日本勧業銀行と合併により第一勧業銀行になり、現在ではみずほ銀行(第一勧銀、富士銀、興銀の3行が合併)となっています。

 

帝国銀行というと、銀行員12人が毒殺された帝銀事件が有名です。

 

また、東急電鉄(東急)の母体となる田園都市株式会社は、渋沢栄一が設立しました。

 

高級住宅街で知られる大田区の田園調布の開発に、実は渋沢栄一が深くかかわっていたということになります。

 

その他、一橋大学東京経済大学日本証券取引所の設立にかかわっていたということで、まさに”日本の資本主義の父”と呼ばれるに相応しい方だと思います。

 

ところで、あと5年後には、1万円札が福沢諭吉ではなくなりますので、慶應大学出身の皆さんはおそらくがっかりしているのではないでしょうか…

 

次は5千円札の津田梅子です。

 

津田 梅子(つだ うめこ)

元治元年12月3日(1864年12月31日)生~ 昭和4年(1929年)8月16日没

日本の教育者。 日本における女子教育の先駆者と評価される。

女子英学塾(のちの津田塾大学創立者

初名はうめ(「むめ」と書いた)で、明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした。

 Wikipediaより引用、一部加筆修正(2019.4.11)

 

津田梅子は2回のアメリカ留学を経て、帰国後「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立した方です。

 

それにしても渋沢栄一の設立した一橋大学と、津田梅子の設立した津田塾大学がご近所なのは単なる偶然でしょうか?

 

ちなみに僕は一橋大学を受験した経験があり、一次試験の足切りにはひっかからず無事に通過できたものの、二次試験であえなく玉砕しました…

 

話がそれました・・・次は千円札の北里柴三郎です。

 

北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう)

1853年1月29日(嘉永5年12月20日)生~1931年(昭和6年)6月13日没
日本の医学者・細菌学者である。貴族院議員・従二位・勲一等・男爵・医学博士。
私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。
「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。

  Wikipediaより引用、一部加筆修正(2019.4.11)

 

北里柴三郎については北里大学を設立したのは知っていましたが、慶應大学の医学部を設立していたのは知りませんでした。それから北里柴三郎は熊本のご出身のようですね。 

 

 新紙幣刷新の目的

今回、麻生財務大臣からは、新紙幣の刷新の理由について、偽造防止の強化のためとの趣旨の発言がありました。

また、今までもおおよそ20年毎にお札のデザインを変えているそうです。

 

そして、今回の新札発表は少し早い印象を受けますが、その発表した理由について、麻生財務大臣は「印刷開始に約2年半かかる。自動販売機等々の準備が2年半で計5年。たまたま元号改正と合わさっただけ」としています。

 

本当にそうでしょうか?

 

ここからは僕の勝手な推測です。

例えば、仮の話ですが…

新紙幣への交換を◯月◯日までにしないと旧紙幣は全て使えなくなります…

とした場合、タンス預金のあぶり出されると思います。

そしてアンダーグラウンドの紙幣が市場に相当金額出てきます。

今の日本の財政状態を考えた場合、こういうことを政府が本気で考えている可能性があります。

 

戦後日本で行われた預金封鎖

実は、戦後に預金封鎖が行われたのですが、皆さんご存知でしょうか?

 

この預金封鎖は、建前上激しいインフレを抑えるためとされていますが、実際のところは、太平洋戦争で多額の戦費をねん出するために多くの国債を発行した関係で、戦後の財政健全化を図るのが目的だったようです。

 

次の動画は、3年前の2016年2月16日にNHKで実際に実際に放映されたニュースです。

 

このニュースによれば、戦後、預金封鎖とともに、財政健全化のため、預金に財産税がかけられたそうです。


預金封鎖 2月16日 NHK

 

まとめ

今日は5年後の新札発行のお話と、その目的について、戦後に行われた預金封鎖と財産税にからめてお話しました。

 

戦後日本で預金封鎖が、実際に行われたことをご存知なかった方も多いのではないでしょうか?

 

動画をみて頂けるとわかりますが、この預金封鎖をした時のときの大蔵大臣は、実は次の新札1万円に選ばれた渋沢栄一の孫である渋沢敬三です。

 

今の国の財政状態を考えた場合には、政府は新紙幣に切り替るタイミングで、旧紙幣を使えなくさせることによって、タンス預金を引き出し、国民の財産を把握し、税金を課そうと考えている可能性は少なからずあると思います。

 

マイナンバーはおそらくそのための布石で、今のところ銀行の預金口座にはマイナンバーの届出義務がありませんが、今後銀行の預金口座について、マイナンバーの届出義務のアナウンスがあった場合には、念の為、要注意かなと思います。

 

今日の記事が皆さんの財産を守るうえでご参考になれば幸いです。

 

それでは!!